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思い出し旅行2002 ~アフリカ大陸縦断 ジンバブエ編 その2~

2017年4月4日

どもども~(^^)v

本日は「思い出し旅行2002」の日でございます。

この記事を書いた人

巨大NGOの下部組織(ブラック)で事務職という名の雑用の後に、なんとなく一人で仕事をしてみようと2008年後半から知識や資金などなど、重要なモノがほぼ0の状態から園芸を生業にした元バックパッカーです。2010年から度々NHK Eテレの趣味の園芸に出演させて頂いています。

もう少し詳しいプロフィールはこちら

前回の内容

前回は、

リロングウェにてモザンビーク経由のジンバブエ行きのバスの中で再会したEちゃんと一緒に行動することになったのですが、さっそくジンバブエに入国する際に「3日前から入国ビザを取得する必要がある」とか言われ、入国審査官に対してゴネにゴネ、しかも半分ケンカみたいなことをしつつも「ボッていなさそう」というEちゃんの言葉で落ち着きながらも半分納得がいかないまま入国。んで、首都・ハラレに到着。

といった内容でしたかね(;^_^A

前回の内容はこちらで↓

ジンバブエからは行動を共にする人が現われたのでまずは登場人物紹介から。

登場人物紹介

・僕・・・当時21歳。大学休学中(4年生)。月300時間というバイト生活6カ月を経て一旦アイルランドへ。3カ月間毎晩アイルランドで飲んだくれた後にエチオピアの国境の町からケニアの首都のナイロビまでの約1000kmの野生動物いっぱいの道なき道をヒッチハイクで駆け抜けたい!という理由だけでアフリカ大陸の縦断を決意し、

とても興味があったルワンダの虐殺記念館を訪れることができ、現在は世界三大瀑布のビクトリア・フォールズに向けて一人でアフリカ大陸をブラブラしてます。

Eちゃん(女)・・・九州出身。当時26歳。看護師。バングラデシュのよくわからない村に1ケ月1人で生活していたという強者。アジア大陸横断済み。僕とはエジプトのアスワンからウガンダとルワンダの国境までの一ヵ月ほど共に行動していた。まさかのリロングウェ発ジンバブエ・ハラレ行きのバスでの再会(^^;)

ジンバブエ共和国、通称ジンバブエは、アフリカ大陸の南部に位置する共和制の国家である。首都はハラレ。内陸国であり、モザンビーク、ザンビア、ボツワナ、南アフリカ共和国に隣接する。2003年に脱退するまでイギリス連邦の加盟国であった。 ウィキペディア 
人口1415万 (2013年) 世界銀行
通貨アメリカ合衆国ドル、 ランド、 ユーロ、 人民元、 インド・ルピー、 スターリング・ポンド、 プラ
公用語英語、 ショナ語、 北ンデベレ語、 ツワナ語、 コサ語、 チェワ語、 ヴェンダ語、 ツォンガ語、 トンガ語

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「ホテル・ジャカランダ」

宿の前の道がね・・・こんな感じになってまして・・・まったく植物のことは知らない時期でしたが、よ~く覚えてます。この画像はフリー素材集から拾ってきましたが道の両側にジャガランダが植えられていて満開で、まさに宿の目の前はこの画像のような様子でした(^^)

たまたま偶然にも泊まろうとしていた宿が一杯で真横の別の宿・ホテル ジャカランダに案内された訳ですが、確か1部屋に二段ベッドが10個くらいあるいわゆる20人部屋のようなタコ部屋でした。

隣の宿は満員なのにこの宿には宿泊客は4人くらいしか泊まってなく快適でしたね 笑。

部屋に一人だけいたので挨拶がてら立ち話をしまして。彼の名前は忘れましたが、隣国のザンビアから長期出張で来てて電気関係のエンジニアだった気がします。基本的に彼とは夜しか会わなかったですが、すごい優しい人だったなぁ~というのを覚えてます。

そのザンビア人に

「宿の名前のジャカランダってどういう意味なの?現地語なの?」

と質問をしてみたら、

「宿の外に紫色がたくさんあるだろ、アレだよ」

笑いながら教えてくれました。

清掃はされていなかったのでこんな感じで宿の前の道は紫色の道になってました(^^)

時期が満開の時期とカブったおかげか、言われて気が付きましたが町中は紫色で埋め尽くされていましてね~この時は植物にまったく興味がなかったですがすぐに「ジャカランダ」という単語は覚えました(^^; 

ちなみにジャカランダは南アフリカやジンバブエが原産ではなく、ブラジルやアルゼンチンが原産のノウゼンカズラ科の落葉樹です 笑。

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パイパーインフレ

インフレとは

インフレについてですが、インフレが何かという知識がある人でも日本に暮らしていると「実際のところ、インフレってどんなもんなの?」っていうのが正直なところだと思います。日本はデフレに進む傾向が長かったですからね。

簡単に言うと

インフレ=貨幣価値が下がる

ということです。

デフレは物価が下がる、これの反対なのでハイパーインフレの地域で外貨を両替するとこんな感じになりました↓

こんなに紙幣を手にすることはもう二度とないであろう・・・ということで記念に撮ってもらいました 笑 数日の滞在でさらにインフレが進み大量の紙幣を保持することになりますが(-_-;) 何か買う時に札束を1束だす、という状態だったのでスーパーの袋に札束を入れて行動してました(^^;

この札束の山で、確か

800円くらい

です(^^;

インフレ、特にハイパーインフレに陥ると例外なく少額の両替でも上の画像のようにとんでもない量の紙幣を手に入れられます。

というのも、政府の発表する公定レートが闇両替のレートに追い付かず、公定レートで両替してしまうと闇両替の10分の1以下程度でしか両替してもらえないからで、

簡単に言うと、

闇両替だと800円で両替してくれるのに公定レートで両替すると80円程度にしかならない

というとんでもない事態でした。

しかもほぼ毎日のように闇レートは更新されていたために、僕らも気を付けないと大損をこく、という状況でした。インフレのスピードが早い地域では一度に大量の通貨を両替しない、ということが鉄則です。小まめに両替、ですね。

真ん中の水色の窓のタワーに日本大使館が入ってました。もちろん行きました(^^)

具体的な事例として

公定レートと闇レートで10倍以上の差があったため、闇両替のレートを知らず政府発表の公定レートで商売している所では5000円のモノが、闇両替している人間にとっては500円以下の価値しかない

ということをジンバブエにいる時は経験しましてね~こう書くとインフレなのかデフレなのかわかりませんが、この「価値の差」を利用しなかった訳がありませんよね~ 笑。 具体的に何に利用したかは・・・・内緒です。

余談ですが、ジンバブエのこのハイパーインフレは70年代の一時期にイランで起こったハイパーインフレの次くらいに酷かったようです。

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理由は

ハラレの町

ハラレの街並み。意外に都会(^^)

ハイパーインフレに陥った理由として

たしかジンバブエの大統領が生産性の高かった外国人所有の農地を自国民にほぼ強制的に譲り渡すように即したのがきっかけで、

この外国人所有の農地で作られたモノが隣国等に輸出され外貨を獲得しジンバブエの経済の一部を支えていたようでしたが、

農業にまったくの知識がない人間が農地を持ったため、ただ土地を外国人から取り戻しただけの状態になり外貨を獲得できなくなった

と誰だったっけなぁ~現地でこのような説明を受けた記憶があります。その後経済的に様々なマイナス要素が重なりジンバブエは10年以上ハイパーインフレが続くと言う人類史上まれな状況が続くのですが、

きっかけは農地の強制回収から始まった、と言われています。

この説明を聞き僕もEちゃんも納得したのが、

前回の「ジンバブエ編 その1」で入国審査官とケンカしまくった、

あの

「突然の入国ビザの復活」

です。外貨獲得が目的だったんですよね~ジンバブエにやってくる人から外貨を調達しよう、という政府の考えだったんです。

南アでBBCかなんかのニュースを見てたら露骨に

「国をまたぐ長距離トラックからも入国ビザ代を取るようになりジンバブエを避ける道を選ぶようになった」

とやってましてね~(^^;)

単純に考えて、なんの通達もなく通過するだけでけっこうな料金を請求され、しかも外貨での支払いしか認めない、となったら迂回するに決まってますよね~。

次回は

では次回は、

皆既日食を見にツアーに参加!

といった内容になるかと思います。

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ではでは~(^^)v

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